正直さ

友人の個展に行った。
[展覧会情報- 山本奈奈:title]

ひとつの絵にも文脈があり、時代や社会や作者の歴史と繋がりがある。それを想うことで、「今・ここ」と「いつか・どこか」の世界を旅する。

一方で、繋がりを無視して楽しむこともできる。実際に、慌ただしい日々の生産/消費行動の中では、楽しみに求めるものも刹那的な快楽になりやすく、そういった快楽が世に出回りやすい。習慣的に、微分のように微小時間あたりの快楽を測定し、その多寡を吟味して快楽を選ぶ。

刹那的な楽しみ方と並行して、文脈を問い読む姿勢を持つことは、良いことだ。すなわち、人の善を信頼した行為だ。なぜなら、その姿勢に引き続く行動こそ、誤りを繰り返さないように計画し行動することに繋がりうるから。微小時間あたりの楽しみはわずかでも、時間をかけるとその積分値は、次の行動に繋がる。

人は、誤るけれども、正直であれば誤りに気付き、それを正すことができる。自分が知らないということを知っている、認められる人は、正直だ。だが悲しいことに、日々の社会生活の中では、正直さをむき出しにすることは賢い方法ではないとされる。本当は、愚か者とはすなわち賢者のことなのだ。

ひとつの本、ひとつの絵の前では正直でありたい。そのあり方はきっと、精神に時空を超えさせる自由を持つから。

女がひとりで生きるということ

女がひとりで生きるということ
ゲイル・ラトクリフ&ハミッシュ・キース著 関口和子訳

女がひとりで生きるということ―すべては自分しだい

女がひとりで生きるということ―すべては自分しだい

〈これから心がけることリスト〉
・社会の変化を指摘したり、分析したり、自分自身の中に取り入れたりすることに精一杯になるのではなく、自分自身にどんどん素直になろう。好きなことや、心地よいと思うことを、たくさんやろう。
・過去でも未来でもなく、現在に生きよう。
・自分を信頼しよう。
・きちんとおいしく食べよう。
・悲しみと回復のプロセスには、始まりと終わりがある。自分の心を大切にしよう。
・過去と現在の愛が混ざり合うことはない。
・変化は、自分自身の外から来るのではなく、自分自身の中から起こるということを強く感じる。

ジャッジメンタルということ

 SEX AND THE CITYやLipstick Jungleのような働く女性がメインで登場する海外ドラマが大好きで、たびたびDVDを借りてきては、見ている。毎週1本借りる時期もあれば、連休や平日でもまとめてガッツリ見たり、そんなに借りるなら返すのも手間だし、買ってもよいくらい。メンタル的に落ちている時には、特にエピソードが心に沁み入り、涙と鼻をふきつつ、見ている。英語の勉強とかはじめは思って借り出したけれど、これが英語の勉強になっているのかは、謎だ。
 最近見ていて心に響いたのは、「ジャッジメンタル(Judgemental)」とか「ジャッジ(Judge)」という言葉で、数年前から引っかかっていたけれど、なんとなく腑に落ちた。具体的に場面を挙げないが、登場する女性たちは、自分にも他人にも正直(honest)に生きようとして生きていて、誰からもジャッジされたくもなく、ジャッジしたくもない。だから、彼女たちは、彼女たちが信頼していた他人にジャッジされたと感じると、「あなたの態度はジャッジメンタルだった」と傷ついたり怒ったりする。他人をジャッジする行為は彼女たちにとって信頼を裏切る行為だからだ。ジャッジする、される、ということに敏感なんだ。
ジャッジメンタルという言葉があることには、初めてこの言葉に出会った時驚いたし、ジャッジという言葉に日本語では表現しきれない重いニュアンスがあるようで、そのことにも驚く。正義とか倫理を考えると、流通などの表面上はグローバル化してきたとはいえ、日本固有の曖昧模糊とした慣習から正義や倫理が出来上がっているように思うことが多い。世間の目やその場の空気のような明確に言葉にできないものだ。一方、アメリカは、祖先の出身国など多様性に富んだバックグラウンドを持つ国民構成をひとつの国にまとめているということや、キリスト教イスラム教などの一神教のメジャーな宗教もあるから、個人をジャッジできるのは誰か明確に一つに絞れないのだろう。日本にいて息が詰まるのは、画一性の高さゆえのお互いのジャッジメンタルさなのかも。日本が鎖国をして内部でお互いに殺し合ってきた歴史があるということを思い返す。内面的なものはなかなか流通しない。
 歴史とか一般的なことは専門でもないし、なんとなくそう思うだけなのだが、今確信していて改善していきたいことは、やはり自分自身のこと。自分自身の心の中や、周囲にはジャッジがあふれているんじゃないか、というかなり辛いことに気づいたのだ。たとえば、朝起きていつもより少し遅かったら、「あー、自分だめだ」と自分にがっかりしたりして…。なんてジャッジメンタルなんだろう。それは笑い話だとしても、特に自信がなくなったとき、人と違うことをしている自分をだめだと決めつけてかかる自分はいったい何なんだろう、と思う。この歳で異性に興味がなくたって、女らしい格好をしていないことが多くたって、誰にも迷惑をかけていない。けれど、これまでいろいろな近い人遠い人から何かと指摘され、批判され、ジャッジされてきた。それは当り前のふつうのことだと思ってきた。ジャッジし合うことがかっこいい、どんなジャッジにも耐えられるタフな奴がかっこいい、そんなヒリヒリした空気にも会った。わたしも他人をジャッジしてきた。アホだった。もう本当にジャッジし合うのには飽きたし、楽しくない。自分自身に対しても、他人に対しても。
 自分の中に自分がデンとすわっている感覚がすくすく(いや、そんなかわいいものではないな、なんだろう、にょきにょき?)芽生えてきた気がする。すわる、という身体感覚で頭での感覚とはちがう気がする。このまま、どんどん図太くなりたい。

母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(信田さよ子)

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き 信田さよ子

 自分が当り前だと思っていたことが、学者によって解き明かされてみると、意外とそうではない…。痛くて、スリリングな、啓蒙ってやつ。

 わたしは日々、機械的に、無意識に頭のなかででき上がった基準に則って動く。なにも考えずにただ動くことは、楽ちん。その方が、社会生活を営みやすい。ただ目の前のことを淡々とこなす。大きな問題は、ない方がいいから、そっと刺激しないように、見ないように、知らないように、安らかで幸せになれるように、日々を過ごす。「賢い」生き方をしよう。

 実際は、ぜんぜん「賢く」なんかなれない。失敗して、傷付いて、泣いて、恥をかき、転び、寝込み、立ち上がり、また歩き出す。

 「賢さ」とは、きっとわたしでなく、社会にとって好都合なものだろう。わたしはわたしの基準を手にしながら、社会の基準を疑い暴き、しなやかで持続的な勇気や強さとともにわたし自身を再構築するプロセスをひたすら歩こう。栄養をとって、仲間と出会いつつ。歩いていれば、なんとかなる。歩き続ける。

 自分が正当と考えていることそのものを明確にし、なぜそれを正当と考えていたのかを明確にするには、体力がいる。

 自分を虚しくし自己犠牲を払い誰かに尽くすあり方は、尽くされても重いし、尽くしている本人も辛い。第三者からすると、おどろおどろしく、美しくない。(そういう感性は研ぎ澄ませておかないと!)けれど、本人たちにとって、その関係が居心地良くなってしまうと、ずっと続いてしまう。断ち切るには大きなエネルギーが必要になってしまう。

 人生を、「誰も傷付けてはいけないゲーム」、「自分が傷付いてはいけないゲーム」、として見てみると、難しく厳しいようだけれど、時には意識してみてもいいのかな、と思う。いや、むしろ、「人は確実に誰かを傷付けるからこそ、誰かや自分に優しくしよう。そういうゲーム。」だと思えばいいかな。少なくとも、わたしは、もう誰も傷付けたくないし、自分も傷付きたくない。甘いか…。むしろ、誰かに優しくしよう、自分に優しくしよう、そう思っていたら、いいのかな。

雨の降り出し

 見上げると、灰色のふくらみのちいさなもの、大きなかたまり、それぞれ流れながら成長してもこもこと重なり、空全体に広がって、厚みが増していく。もうすぐ来るな、と胸にひろがる。地面ちかくの大気は水分をふくんで皮膚に重く、かすかなにおいがたちこめ、わたしはあたりに生きものの気配を感じる。むやみやたらと脳が発達した人間だから五感はそうとう鈍っているし、重力にさからえないわたしは、地面にかぎりなくちかくにて、もぞもぞと暮らしている。地をはいつくばって生きるのだ。そんなこと、今思い出さなくていい。空気は、雰囲気は、この空間はたえず流れ、動いている。生きている。もうすぐ、生まれるんだから。

 こらえきれずに、あふれてきた。漏れてきた。水滴の粒と粒がぶつかる音だろうか。ひと時の音楽を聞いて、わたしの体は皮膚からなかへと、ふわっとする。浮きたつ。いったん、たがが外れると、水は流れ出した。においも雰囲気もあったもんじゃない。水滴の大群は、もはや物体としてぶつかってくる。打ちつけてくる。アスファルトにはしみこまず、コンクリートにはなじまず、流れができる。


 ここ数日、雨が降ってうれしい。雨の日に部屋にいると、ほっとする。とくに、降り出しを見たり聞いたりするのが、ぜいたくでとても好きだ。傘をさして外を歩くのもすてきだが、わたしにはしっかりした骨組みに厚手の生地でできた理想の傘も、たのもしいゴムでできたすべりにくい雨靴もない。あるのは軽量折りたたみ傘のみ。また、天気予報を見ずに外出し、傘なしで濡れネズミとなって走って帰ることしばしば。管理人さん夫妻はそんなわたしを、しかと見ていた。

 こんど、雨具をしっかり装備して、いろいろな場所で雨を堪能するのはどうだろう。なんだかそれも、よさそうな気がしてきた。

初夏からの読書たち

私小説 from left to right (新潮文庫)

私小説 from left to right (新潮文庫)

 小説を読む習慣がなくなっていた時にわたしはこれを読んで、ぎっしりとつまった書き手の表現したいものや表現力に、深い満足感を覚え、魅了された。自分の中のこわばった考えや、思いが解きほぐされて整理され癒されたような記憶があるけど、それがどんなことだったか、今思い出せない。一昔前の日米の文化のちがい、娘がおとなになるということ、姉妹や母、家族という関係性。読むことで、自分の気持ちや感じたことが言いあらわされていく。また、ものごとのことなる感じ方を知って、立体的に感じることができるようになる。わたしはベッドに寝転んで、のめりこんで、ぐいぐい、読んだ。こころいっぱいな満足感があった。


お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

 女性の作家の小説を読みたくて、数時間で読んだ。軽いタッチで重くなく、テレビを見ているような圧迫感のなさで、でも画一的ではなくて、読み手がのめりこまずとも、世界のふくらみやでこぼこや、いろいろなひとのいろいろな物語を感じさせてくれた。さらさらと肩ひじを張らずに読めるということは、日々の生活の中で小説を楽しむためのはずせないポイントだと思う。


もしもし下北沢

もしもし下北沢

 回復することに対し、ゆっくりていねいに向きあおうと思った。いくら時間をかけてもいい。そこなわれたものは、本当には急には埋め合わせられない。間に合わせの応急処置はできるけれど、じっくりと埋め合わせることにいつかは向き合うときが来るのだろう。そこなったものを放っておいたり、見ないことにしたり、目先をごまかすことは、きびしい表現だけど、命をむだにすることかもしれない。けれど、その日々をやりすごして生きのびることはまちがってはいない、とわたしは思った。いくらかの強さや優しさが自分の中に生まれるときが、いつか、きっと来る。


 読書って、ただ内容を情報として頭の中に映画のように映し出すだけではなくて、読むという運動をする時間のなかにいちばん味わいがあると思う。だから、読書記録には、ほとんど意味や価値がない。けれども、むだではないような気がしている。わたしは、まだまだ型どおりの読みしかできないし、想像力は限界ばかりだし、キャパは小さい。読書をすることで、雲をつかんでみたいような、すこし飛び越えた感触になれることがやっぱりいいと思う。

初秋に

 昼過ぎから部屋を出て、オープンカフェで手作りハンバーガーをオレンジジュースと食べて、ぐるっと散歩してから、自転車屋で空気入れを借りて自転車のタイヤに空気を入れて、図書館に寄って写真集を見て、夕方帰ってきた。数時間前は乾いた空気とあわい日ざしに透けた緑がやさしく、帰りはしんと暮れなずんで深緑だった。

 夏が終わってしまった。

 味わいつくした夏、名残惜しい夏、終わってせいせいする夏、とくに感慨もない夏、これまでどれも経験したような気がする。いろいろな夏のバリエーションがブレンドされて、なんともいえない苦い夏だった。わたしの好きなコーヒーのような、夏。でも、これまででいちばん、と思った味ではないな。

 初夏は、こころが重かった。そんなになるまで放っておいてはいけなかったと思う。自分の限界を知った。

 とにかくそのころは、いろいろなものと戦い、がんばっていた。いま思えば、自分の中の積年の敵もわらわらと沸いていた。よくもまあ、こんなにいろいろと拵えた(こしらえた)こと。ふりかえると、笑える。さらに、戦うほどに自分に闘志が湧き、おろかな正義感をたずさえていい気になっていた。もはや、自分の頭の中で敵を拵え仕立て上げ戦うことは、趣味の域に達していた。もちろん、悪趣味だ。

 こどものころ、いちど寝れば、いやなことを忘れられた。時が経つと、それがたやすくできなくなっていた。こだわりが強く、頑固になっていた。そうまでして、守るべきものはほとんどなかったから、自分で気づいた時のこっけいさといったら、もう。いまは自分のことを笑えて、こころからよかった。(嗤うではなくてね!)

 単純に、戦う対象を定めて戦い「がんばる」ことで、新しい環境に適応しようとしていた。やるべきことをすり替えていた。不毛な個人戦は、もうやめよう、と決めた。

 自分を適宜軌道修正したり、再構成したりして、生きやすくすることが上手な人が、「生き方上手」というのだろう。わたしはそれが鮮やかにできるような気は到底しないので、痛い失敗のたび直せるところは直すやりかたでやっていければいいや、と開き直っている。大学の時親しかった人に、失敗しないように細心の注意を払うやりかたで生きている人がいて、それにかなり影響されていたけれど、わたしには向かなかった。わたしは、痛い思いをしながらでも思い知って修正していかないと、へんな方向にいくのだ。痛い思いをしたくない、なんて、わたしにとって生きたくないといっていることと同じだ。

 そもそも人生を設計することはできないのではなかろうか。個人の幸せも処世術もひとそれぞれで、他人が言っていることが自分にあてはまるとは限らない。人生がこうしたらこうなる、とわかっているのなら、文学も音楽も劇も絵画も、なにもいらなくなってしまうのではないか。少なくともわたしは、この夏とほうに暮れたとき、文学や音楽や絵画にずいぶん救われた。どこにどう効いたということではなく、知らず知らずのうちに。

 ひとつ言えるのは、これからはなにかをめざして生きていくのではなく、無意識に築いてしまった身のまわりの枠をどれだけはずせるか、ということに意識的になろう、と。それから、自分の言葉でしゃべろう、自分の文を書こう、自分の絵を描こう。