母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き(信田さよ子)

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない 墓守娘の嘆き 信田さよ子

 自分が当り前だと思っていたことが、学者によって解き明かされてみると、意外とそうではない…。痛くて、スリリングな、啓蒙ってやつ。

 わたしは日々、機械的に、無意識に頭のなかででき上がった基準に則って動く。なにも考えずにただ動くことは、楽ちん。その方が、社会生活を営みやすい。ただ目の前のことを淡々とこなす。大きな問題は、ない方がいいから、そっと刺激しないように、見ないように、知らないように、安らかで幸せになれるように、日々を過ごす。「賢い」生き方をしよう。

 実際は、ぜんぜん「賢く」なんかなれない。失敗して、傷付いて、泣いて、恥をかき、転び、寝込み、立ち上がり、また歩き出す。

 「賢さ」とは、きっとわたしでなく、社会にとって好都合なものだろう。わたしはわたしの基準を手にしながら、社会の基準を疑い暴き、しなやかで持続的な勇気や強さとともにわたし自身を再構築するプロセスをひたすら歩こう。栄養をとって、仲間と出会いつつ。歩いていれば、なんとかなる。歩き続ける。

 自分が正当と考えていることそのものを明確にし、なぜそれを正当と考えていたのかを明確にするには、体力がいる。

 自分を虚しくし自己犠牲を払い誰かに尽くすあり方は、尽くされても重いし、尽くしている本人も辛い。第三者からすると、おどろおどろしく、美しくない。(そういう感性は研ぎ澄ませておかないと!)けれど、本人たちにとって、その関係が居心地良くなってしまうと、ずっと続いてしまう。断ち切るには大きなエネルギーが必要になってしまう。

 人生を、「誰も傷付けてはいけないゲーム」、「自分が傷付いてはいけないゲーム」、として見てみると、難しく厳しいようだけれど、時には意識してみてもいいのかな、と思う。いや、むしろ、「人は確実に誰かを傷付けるからこそ、誰かや自分に優しくしよう。そういうゲーム。」だと思えばいいかな。少なくとも、わたしは、もう誰も傷付けたくないし、自分も傷付きたくない。甘いか…。むしろ、誰かに優しくしよう、自分に優しくしよう、そう思っていたら、いいのかな。