初夏からの読書たち

私小説 from left to right (新潮文庫)

私小説 from left to right (新潮文庫)

 小説を読む習慣がなくなっていた時にわたしはこれを読んで、ぎっしりとつまった書き手の表現したいものや表現力に、深い満足感を覚え、魅了された。自分の中のこわばった考えや、思いが解きほぐされて整理され癒されたような記憶があるけど、それがどんなことだったか、今思い出せない。一昔前の日米の文化のちがい、娘がおとなになるということ、姉妹や母、家族という関係性。読むことで、自分の気持ちや感じたことが言いあらわされていく。また、ものごとのことなる感じ方を知って、立体的に感じることができるようになる。わたしはベッドに寝転んで、のめりこんで、ぐいぐい、読んだ。こころいっぱいな満足感があった。


お縫い子テルミー (集英社文庫)

お縫い子テルミー (集英社文庫)

 女性の作家の小説を読みたくて、数時間で読んだ。軽いタッチで重くなく、テレビを見ているような圧迫感のなさで、でも画一的ではなくて、読み手がのめりこまずとも、世界のふくらみやでこぼこや、いろいろなひとのいろいろな物語を感じさせてくれた。さらさらと肩ひじを張らずに読めるということは、日々の生活の中で小説を楽しむためのはずせないポイントだと思う。


もしもし下北沢

もしもし下北沢

 回復することに対し、ゆっくりていねいに向きあおうと思った。いくら時間をかけてもいい。そこなわれたものは、本当には急には埋め合わせられない。間に合わせの応急処置はできるけれど、じっくりと埋め合わせることにいつかは向き合うときが来るのだろう。そこなったものを放っておいたり、見ないことにしたり、目先をごまかすことは、きびしい表現だけど、命をむだにすることかもしれない。けれど、その日々をやりすごして生きのびることはまちがってはいない、とわたしは思った。いくらかの強さや優しさが自分の中に生まれるときが、いつか、きっと来る。


 読書って、ただ内容を情報として頭の中に映画のように映し出すだけではなくて、読むという運動をする時間のなかにいちばん味わいがあると思う。だから、読書記録には、ほとんど意味や価値がない。けれども、むだではないような気がしている。わたしは、まだまだ型どおりの読みしかできないし、想像力は限界ばかりだし、キャパは小さい。読書をすることで、雲をつかんでみたいような、すこし飛び越えた感触になれることがやっぱりいいと思う。