ジャッジメンタルということ

 SEX AND THE CITYやLipstick Jungleのような働く女性がメインで登場する海外ドラマが大好きで、たびたびDVDを借りてきては、見ている。毎週1本借りる時期もあれば、連休や平日でもまとめてガッツリ見たり、そんなに借りるなら返すのも手間だし、買ってもよいくらい。メンタル的に落ちている時には、特にエピソードが心に沁み入り、涙と鼻をふきつつ、見ている。英語の勉強とかはじめは思って借り出したけれど、これが英語の勉強になっているのかは、謎だ。
 最近見ていて心に響いたのは、「ジャッジメンタル(Judgemental)」とか「ジャッジ(Judge)」という言葉で、数年前から引っかかっていたけれど、なんとなく腑に落ちた。具体的に場面を挙げないが、登場する女性たちは、自分にも他人にも正直(honest)に生きようとして生きていて、誰からもジャッジされたくもなく、ジャッジしたくもない。だから、彼女たちは、彼女たちが信頼していた他人にジャッジされたと感じると、「あなたの態度はジャッジメンタルだった」と傷ついたり怒ったりする。他人をジャッジする行為は彼女たちにとって信頼を裏切る行為だからだ。ジャッジする、される、ということに敏感なんだ。
ジャッジメンタルという言葉があることには、初めてこの言葉に出会った時驚いたし、ジャッジという言葉に日本語では表現しきれない重いニュアンスがあるようで、そのことにも驚く。正義とか倫理を考えると、流通などの表面上はグローバル化してきたとはいえ、日本固有の曖昧模糊とした慣習から正義や倫理が出来上がっているように思うことが多い。世間の目やその場の空気のような明確に言葉にできないものだ。一方、アメリカは、祖先の出身国など多様性に富んだバックグラウンドを持つ国民構成をひとつの国にまとめているということや、キリスト教イスラム教などの一神教のメジャーな宗教もあるから、個人をジャッジできるのは誰か明確に一つに絞れないのだろう。日本にいて息が詰まるのは、画一性の高さゆえのお互いのジャッジメンタルさなのかも。日本が鎖国をして内部でお互いに殺し合ってきた歴史があるということを思い返す。内面的なものはなかなか流通しない。
 歴史とか一般的なことは専門でもないし、なんとなくそう思うだけなのだが、今確信していて改善していきたいことは、やはり自分自身のこと。自分自身の心の中や、周囲にはジャッジがあふれているんじゃないか、というかなり辛いことに気づいたのだ。たとえば、朝起きていつもより少し遅かったら、「あー、自分だめだ」と自分にがっかりしたりして…。なんてジャッジメンタルなんだろう。それは笑い話だとしても、特に自信がなくなったとき、人と違うことをしている自分をだめだと決めつけてかかる自分はいったい何なんだろう、と思う。この歳で異性に興味がなくたって、女らしい格好をしていないことが多くたって、誰にも迷惑をかけていない。けれど、これまでいろいろな近い人遠い人から何かと指摘され、批判され、ジャッジされてきた。それは当り前のふつうのことだと思ってきた。ジャッジし合うことがかっこいい、どんなジャッジにも耐えられるタフな奴がかっこいい、そんなヒリヒリした空気にも会った。わたしも他人をジャッジしてきた。アホだった。もう本当にジャッジし合うのには飽きたし、楽しくない。自分自身に対しても、他人に対しても。
 自分の中に自分がデンとすわっている感覚がすくすく(いや、そんなかわいいものではないな、なんだろう、にょきにょき?)芽生えてきた気がする。すわる、という身体感覚で頭での感覚とはちがう気がする。このまま、どんどん図太くなりたい。