一段落

東京にうつり住み、働きはじめて1年と3ヶ月たち、ようやく仕事が一段落した。盆や正月もあったが、季節のうつろいの中で自分や人の気持ちを感じるには、細切れに感じられる時間ばかりが過ぎ、いたずらに生計を立てる活動に専念した。
桜の季節は2回あった。1回目はオフィス街のビルとビルの間、フィルムで写真を撮ることで、季節を確認した。2回目は満開の桜並木の歩道橋の上に人々が押し寄せて、あわや落ちるのでは、と心配しながら、季節を確認した。
新緑は、キラキラしてた。自転車に乗り始めた。

人や人工的なものと、自分との間に空間が十分あると、精神が風景を感じ、自分の体を環境と感じる。大都会で人や人工的なものが過密だと、その余裕がない。なんだか、体の中にガスかなにかが溜まるような感じがある。それを素人っぽくもてあまし、大人にもおりこうさんにもなれず、他人に迷惑をかけてきた。

生きていかねばならない、という切迫した思いに突き動かされることが不意にあった。それは、地震で止まった電車の中、スマートフォンを覗きこむスーツの灰色の男たちが背中合わせでひしめき立つのを見ながらだった。高架上を走る電車は、停車する前に、大きく左に曲がって、暮れゆく光の郊外の街が見えた。曲がる時、2本の足で踏ん張って、のけぞらないようにした。晴れていれば自転車で移動するので、その日は朝にひと雨降ったのだろう。

どこでだれとどんな季節を感じるか、未来の予測は不確実だ。わたしは働くため生活するために場所を移ったし、別れた人もいるし、これからどこの国に行くかわからない。その土地は四季がないかもしれない。

自分のことを自分で決める。
今ある社会の中で生計を立てること、社会とどう関わって(位置付け、量、やりかた)それをするか、ゼロから考えて決める。違和感を抱きつつも、不景気の煽りを受け、就職就活ありきで慌てて社会に出てみたはいいが、やはり足元がおぼつかない。これまでわたしは、自分で決めないことを自分で決めていたということだ。

じめじめした梅雨になった。肌がかゆい。もうすぐ夏が来る。