京都にて

京都にて

 からりと晴れた透明な空の下、遠く北の山は白く、まぶしい光が反射する鴨川デルタの亀の上でしゃがみ、わたしは友を待った。跳び石を、ひとつひとつスニーカーではね跳び再び出会った友は、見上げれば風邪をおしても笑顔だった。

 スマートフォンのタッチパネルを指で擦りGoogle mapを開くと、今朝友達と借りたレンタカーで出発するとき わたしがいた場所・新宿を示した地図の画面から、一気に遷移し、GPSは京都を指した。その瞬間、このからだごとひとっ飛び。2年前までのわたしの日常のいまへと時空を翔けて、ついに自分が京都にいることの実感と喜びが込み上げた。

 東京の暮らしは、当初 気がおかしくなりそうなほど、いつも早く京都に帰りたかった。生活のため心を動かし、体を動かし、ここからどこかへと体を運び、隠れたり逃げたりとにかくやり過ごしなじんだ。わたしは、東京のことを知らない。京都にいるときの、からだが無意識に にやけてそこにおることは、なかなかできないけど、東京での逃げ足はしたたかに、速くなった。

 でも、あきらかにわたしは前のわたしとはちがったし、友だちも前の友だちとはちがった。それはほんとうに面白いことだと思った。京都で生活していた時もそこまで頻繁に会おうとして会わない。会う頻度は京都で暮らしていた時と今とくらべると逆に増えた。でも、会うとやっぱりひさしぶりな気がする。場所がちがうだけで会わない時間の質のようなものがこんなにもちがうこと、会った時のその瞬間瞬間の切実さがこんなにもちがうこと。同じ空間にいて同じ空気を吸って食べたり喋ったり笑ったり、会うということがとてもリアルで生々しい。

繋がる手段は電話やインターネット、たくさんあるけど、いまのわたしに通信手段は「わたしたちは繋がっている」というよりも、「いまここでわたしたちは出会っていない」ということをリアルに感じさせる。

終わりなき日常よりも、非日常での方が、より切実さやリアルさ、生々しさを感じるねじれのなかにいる。

いまここにないものを頭の中に像として投影して、喜んだり悲しんだり。日々、パソコンの画面を見て過ごしていると、いまやここ、わたしという実感でさえ、自分から遠くなって、未来のことやつまらない問題ばかり心配している。いまのわたしの一日の暮らしのほとんどは、未来への準備だ。いまここにいることには生きるリアルが希薄だけど、かといって、かがやく未来へ行進している気もしない。意識や感性を開かなければ、生きている感覚が薄れていく。それが東京のわたしだった。

いまここにわたしがいることを、教えてくれたのは、いまここにあなたがいないことを教えてくれたスマートフォンで、これをもって設定しないと会えないわたしたちは、それでもどこかで繋がっているらしくて、いつかあなたに会いたい、といまここでつたない生命感のなかで、思ってるんだと、思う。そのことだけは、大事にしたい。

ひんやりとした冬の空気を、また一緒に吸おう。