世界の色彩

「社会の規範やシステムなんか関係ない、わたしはわたし!他人にどう見られたって気にしない!」と思い、おろかに強情に生きようとしてきた時代が、わたしは長かったため、多くの男女は出会い、結婚し、家庭を築いてきたという社会の歴史が、この年齢になって今さら重い。多くの男女が出会い結婚する妙齢に差し掛かると、異性との出会いや会話や遊びは、無色透明な関係性からは始まらない。社会の歴史的な男女の関係性の色合いに、どんな男女の関係性も濃淡の差こそあれ染められ、こちらはなにも考えずゼロな気持ちで会っているつもりなら、社会や世間に言い訳をするために、染められた色を消そうとするが、よっぽど強い漂白剤でもなければ、その色は消せない。

休日の午後、本を物色し購入した後、ひとりでカフェのカウンターで一息ついていたら、隣の男女二人組の会話が聞こえてきた。彼らはわたしと同年代に見えた。女が男に会社での知人の結婚や昇進の話をすると、男は話がわからない、整理して話してという風に言った。女が伝えたいのは事実だけではなく、その事実を受け自分が感じる不安や懸念が混じっていた。むしろ、女がしていたのは、事実の伝達でなく感情の処理だったように思う。ひとは、自分の感じている世界を伝えたいし、それを共有し、相手の世界観を知り、できれば同じ世界を生きたいと思う生きものだろう。事実と感情を混ぜた論理的でない話をして、男に訂正を求められる女の会話を聞き、男の世界の言葉で話さなくてはならない女の悲しさを思った。その世界を構築する言葉がなければ、その世界はないことになってしまう。でも、その世界を構築する言葉がまだ十分に開発されていない現状では、男の世界の言葉ででしか女の世界は構築できない不完全さをもつ。男の世界の言葉の枠に絡めとられる不自由さの中で、女は世界を構築していかなくてはならない。

誰もが固有の、複数の世界を生きながらも、それを他者と共有するとき既存の枠組みの中でしかその世界を構築できない不自由さを生きている。言葉や身振りやアートなどの、世界を他者と共有する方法は、不完全で不十分で脆弱だし、そもそもひとは弱い。

ひとの弱さを強く思った事件が、最近の兵庫県尼崎の連続死体遺棄事件だった。ひとの家族に介入し崩壊させる、強い磁場をもった、社会と断絶したひとつの世界を出現させるひとの弱さを思った。強いのはひとではなく、磁場や気のような力で、それに囚われるからひとは弱い。だから、いろいろなひとの支え合いが要るのだ。

今の社会は、大きな声の男たちが構築してきた世界である部分が、まだまだ多いと思う。その世界と共犯関係をもち同じ色に染まろうとする支え合い方も、賢いし悪くない。一方で、ちがう位相でちがう色合いで世界を彩っていくことも、弱いひとだからこそきっとできて、その世界の多層性の深さや彩りの豊かさを行き交いながら生きることで、弱いひとでも生き延びることができそうだ。