誕生日のこと

もうすぐ自分の誕生日がやってくる。
その日に自分が生まれたと思うと、しみじみとした思いがわき上がる。

はじまりがあれば、終わりはある。
その過程は思わしくないこともあるけれど、終わりのある事実を認識して、ひと時ひと時を生きようと思う。

どうあがいたって、いつかは終わりがきてしまう。
その時までにどうありたいか。
考えるのを先送りにしているな。一番大事なことなのに。わたしはいつも一番大事なことを考えるのを避けて、その時楽な方へ逃げている。

でも、本当に現実はそうなんだ。
いつかはひとりで死んでいく。何ひとつ持っていくことはできない。
嫌な人にもう会うこともない。好きな人にも、もう会えない。
好きなものをもう見ることも使うこともできない。
自転車にも乗れない。きれいな景色も見られない。
嫌で嫌で仕方のない日本の男社会にも、もう挑戦できない。
行きたかった国にももう行けない。
読みたかった本も、もう読めない。

それがいつ起こるかわからない。明日かもしれない。

終わりは、予期せぬ災害においてであったり、穏やかな空間においてであったり。
ほとんどの場合、自分では終わりを選ばない、決めない。
(書きながら今、高校生の時分に脳死ターミナルケアのことをよく考えていたことを思い出した。さらに、高齢化した今、死にまつわることはビジネスになりそうだと思う。送りびとブームは今どうなってるかな)

終わりへの覚悟を持つのが生だと、何かで読んだけど、その通りだと思う。
思い返すと、その覚悟を持つべくプログラムされてきたかのようなプロセスだ。
メメント・モリが「死を想え」の意味であると中学か高校の国語の教科書に載っており、友人から勧められた藤原新也のインドの写真集のタイトルでもあり、一時期夢中になったMr.Childrenの歌のタイトルでもあった。
あるわたしの親しかった友人は、いつ死んでもいいと思って生きていると言った。中には本当に突然にバイク事故で死んでしまった人もいた。彼女とは中学の時、死について語り合ったことがあった。

いつからか、死は、わたしのすぐそばにいる、なぜか腐れ縁で繋がりが続いている友人のような、決して打ち解けはしないけれども、ある意味気やすい存在になっているのかもしれない。
ゴリラのココは、死を
    comfortable/hole/bye (日本語意訳:心地の良い/穴/さよなら)
と表現した。
日本語サイト:泣いたゴリラ - 優しい唄歌い
英語サイト:Free Horoscopes, Best Psychics Readings. Kajama.com – Get Free Horoscopes and get readings from the best Psychics in the USA.

心地よい穴に入り皆にさよならするその時までに、どうありたいか。
結論めいたものをやっぱり出さない/出せないけれど、自分のコミットするものに「ありがとう」して、ご機嫌に過ごしていれば(これこそ本当は難しくて本質的には「世界を肯定する」ことなんだと思う)、どうあろうが、いいのではないか。
生きていることはいいこと。死ぬこともいいこと。存在することはいいこと。いいというのは、善悪でなく、気持ちいいとか安定状態とかそういうハッピーなことという意味。

世界を肯定したいなぁ。わたしは。