自然災害という大きな困難を前に、「今」、ヒトは。

昼休みのネットサーフィン中、アメリカでも地震があったことを知った。
地震を体験したことのない多くの一般人の、驚きと恐怖の声を読んで知った。

日本もアメリカもニュージーランドなどでも、相次ぐ地震
地球のプレート運動が活発で、人間の住んで心安らぐ場所など、もう地球上どこにもないかのような、終末的な気分になる。あぁ、世界の終わりかな、という。
こんな気分はいささか単純だし、100%の安全なんてないのはわかっているけれど。

でも、人類は、科学技術で自然をコントロールして繁栄を築こうと取り組んできたのではなかったか。
原始人は自然災害に為すすべもなかったのだろうけれど、人類は科学技術革新によって、安全で快適な生活を基盤にした繁栄を目指していたのではなかったか。
どうも、わたしには、多くのヒトの「生活」という基盤が、一部の支配的特権的なヒトの目指す「繁栄」によって揺らがされているようにしか見えない。
しかも、そこに科学技術を政治的に利用している。
理系としては、そんな科学技術は本質的なあり方としてまちがっていると思う。

「繁栄」を目指す過程で、「効率」や「簡単」「便利」「快適」が重要視されてきた。
そうであるからこそ、今の人類には、自然に対する恐ろしさはより増しているのではないか。
地震は怖い。震度2でも怖い。人類にはそれは止められない。
でも、原発は止められるはずなのに。
簡単・便利の時代だからなおさら、地震で交通手段が失われたり、食べ物がなくなったりすることは、本当に怖い。
手作りでなんでもこなさなければならなかった時代の方が、災害でほころんだ生活の部分をカバーできたのではないか。
人類の身の程を知り、できる範囲で作っていた生活基盤の方が、安定なのではないか。

今は、もしかしたら、クーラーの効いた快適な部屋で、クリック一つで人を殺したりできてしまう時代かもしれない。
ついこの間の、海外ニートさんのブログ閉鎖をなぜか連想してしまう。
自分の心といういちばん身近な自然をも暴走させてしまうような、自然克服を目指す一つの道具であったはずの科学技術を使う人類の「今」が、ここにある。

私自身を振り返ると、ちょっと立ち止って考えてみないと、こんな当たり前のことすら、考えられないおかしなムードに流されている。当たり前のことが言いにくく、気が狂ってしまいそうだ。何はなくとも、「生活」なのだ、大切なことは。衣食住。食って、着るものがあって、寝る場所があること。あぁ、しかし、食うために毎日電車に乗って、働きに行かなくてはならないのだよ。
そのムードに流されているわたしは、政治的な振る舞いをしている。そんな自分を自覚し、勇気を持って省みる試みを、たまにはしているつもりだ。
日々、ミクロな悩みは尽きない。生活のなかでは、自分の目のレンズが厚いのか、検出器や分析器が良すぎるのか、分解能が高すぎるし、視野が狭い。

自然災害という大きな困難を前に、「今」、ヒトは。
なにをなすべきで、なにをなさぬべきか。
意見はひとりひとり誰もが持っている。
わたしは、人がなるべく死なないで、不便でも生活していける方針を支持する。