尖ったナイフ

近ごろ、自分が36歳になったら、46歳になったら、と想像して、なんだかこわい。先のことはわからないし、あまり考えない方が賢明なのだろう。

思うのは、わたしがいかに社会の枠組みをアホらしいと感じているのに、そこから漏れずに生きてきたし、そうしようとしているということ。しかも、知らず知らずのうちにだ。
なにか大きな流れに呑みこまれているのはわかっていた。そのことに自覚的であろうとしてきた。けれど、だめなんだ。こうやって、思い返して気づくことも、しだいにできなくなるのかもしれない。自分ひとりでどこまで持ちこたえられるだろうか。

結局は、女ということから逃れられない自分がいる。生き方や、社会との関係性を考えるときに、避けては通れない。いくら避けたくても。この社会は男仕立ての世界だから。この社会の枠組みから、(不本意ながらでも)ちょっとでもはみ出してしまった者は、異邦人になり彷徨い歩くことになる。

じつは、結婚なんかアホらしいと思う気持ちと、幸せな家庭に憧れる気持ちをずっと両方もっていた。その両方、自分と、身近な人の体験からだ。でも、本当に結婚できなかったら、と思うと本心ではこわいのだ。世間からの目が。さらに、自分ひとりで本当にやっていけるのか、社会の大多数のカップルと比べて、自信がない。だからと言って、今から結婚相手を探す気も起きず、付き合えそうな人を狂ったように引きとめるのに必死だった。あさはかだった。優しさの利用といって批判されたし、期待のしすぎと言われた。そうかもしれない。こわかった。

女として認められたい許されたい、という気持ちがあって、社会の枠組みにとりこまれていることに、気付く。

わたしは女として許されているのだろうか。
それは自分で決めるんだ、という声と、答えられずだまりこくる沈黙が、自分のなかで、まだ、まじりあって、かたちを成さない。

ただ、社会のなかであるべき女というものから、少しでも距離を置き、自分ほんらいの姿を常に追求したいという、今は尖ったナイフのようなものを、心に忍ばせておく。それを、自分の希望としておこう。